第19夜 多様性を「認める」?

昨夜寝る前に考えていたこと

SDGs依存症のせいで見失われる本質

以前、サウナでテレビを眺めていると、こんなニュースがありました。

要約すると、かつて限界集落であった北海道下川町で近年若者が働きやすい街づくりが行われ、結果として子連れの移住者が相次いだのだそうです。下川町では保育に力をいれ、女性も働きやすい環境が整備されているという事実が、映像と共に語られました。

これ自体は素晴らしい取り組みで、地方自治体も見習う部分があるでしょう。しかしVTRが終わった後の「これがワーママの多様性を認める、ということでしょうか」というキャスターのコメントを聞き、「それは違うだろ」と思いました。

それは当然のニーズを満たしただけであって、多様性が社会的に許されたわけではないのでは?

私の考える多様性は「一方からは到底受け入れられないこと」です。この観点からすれば「外見の多様性」という言葉は矛盾だらけで、その言葉自体が差別的だとすら感じます。真の多様性は人間の生贄を太陽に捧げる文化や、かわいい犬を食用とする文化を認めることにあります。いや、仮に認められなくとも干渉しないことにあります。

近年のSDGsブームはこの感覚を歪めていると感じます。政府も企業も何かとSDGsと結びつけようとし、その結果が今回のような誤謬です。

星野道夫の小説で、イヌイットの家庭の文化を描いた作品があります。ここで知ったのですが、イヌイットの男性は客人をもてなすために、自分のパートナーの身体を客人に差し出すのだそうです。この文章を読んだとき、私は多様性の本質を知りました。私はこのイヌイットの文化は100年経っても理解できません。ですが、彼らの文化は否定せず、互いに強制せず存在し続けることが重要です。強制しすぎた結果が欧米列強の帝国主義であったことは、歴史が雄弁に語るところでしょう。

多様性は理解せず「飲み込む」もの。多様性を「認める」なんて言っている内は多様性理解が進んでいないな、と性格の悪い私はニュースを見て思ったりするわけです。

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